ルースの部屋を出た後も、エルリック兄弟は口をつぐんだままだった。
病院を出ると、2人はどちらともなく病室のある建物を見る。
「アル……」
「うん……?」
「お前ってさ……母さん似だったんだな……」
ぼそりと言うエドワードに、アルフォンスは頷く。
「うん……さっき、ルーを見てつくづくそう思った。」
成長しきっていない少年の骨格……げっそりとやつれていた顔も、治療によって少しまろみを帯びていた。
だからなのだろう……笑って手を振る姿に、亡き母の面影があった。
「母さんが……笑って送り出してくれたような気がした……」
「ああ……」
「兄さん……我慢しないで、泣いていいんだよ。今は、周りに誰もいないから。」
「誰が泣くってんだよ。」
「だって……兄さん。今にも泣きそうな顔してる……」
「バカやろ……っ。太陽が、まぶしいだけだ!」
「ボク……あのルーを見て泣きそうになった……でも、僕は涙でないから……」
だから、代わりに泣いてよ。
そう頼んでくる弟の背中を、エドワードは鋼の手で軽くたたく。
「ばーか。だったら、今頃あいつがお前の代わりに泣いてくれてんじゃないか?」
「ははっ……そうか。そうだね……」
アルフォンスは肩をすくめて小さく笑った。
「あれっ?」
手の甲にポタリと落ちてくる水滴に、ルースは小さく声を漏らす。
「……涙?」
まつ毛を震わせ瞳から溢れてくるそれを指で掬う。
「……どうして……」
涙を流すような物理的な理由はない。
だとすれば、これはアルフォンスが流したものか。
そういえば、エドワードも別れしな不思議な顔をしていた。
「原因は、僕かな?
僕……何かしただろうか。」
ベッドを離れ、窓際に立つ。下を覗き込むと、丁度2人が施設から街道へと出るところだった。
「行っておいで。そして、1日も早く目的を果たすんだ。」
そう呟いて、窓から離れようとした瞬間身体は勢いよく反転し、両腕が勝手に窓を開け放った。
「くっ……!」
手が窓の桟を掴もうとするのを、上体をのけぞらし足を踏ん張ることで耐える。
前へ行こうとする力と、後ろへ引く力でバランスを崩し尻もちをついた。
なおも前へ前へと宙を泳ぐ右腕を、左手で掴んで声を荒げる。
「この……っ。大人しくしろよ!」
ルースは床に這いつくばるような格好で、もがき続ける腕を押さえながら、錬金術を使った。
窓下の壁がせり上がり、窓を潰していく。
陽光差し込む窓が無くなり、無機質な白い壁だけとなると、暴れまわっていた腕は、諦めたように静かになった。
ルースは安堵の息を吐くと、自分の両腕を見つめる。
「頼むから静かにしていてくれよ。
アルフォンスはまだ身体に戻るわけにはいかないんだ。」
肉体と魂は引かれ合う……肉体は魂を求め追いかけようとした。
鎧に定着されている魂は、肉体へ帰ろうとしないだろうか……アルフォンスの意思に関係なく、魂が鎧を拒絶してしまったら?
ルースは大きく頭を振った。
「ここから見える景色。好きだったんだけどな……」
窓であった場所を見て嘆息を漏らす。
日差しが差し込まなくなったために、明るかった部屋がすっかり陰気になってしまった。
魂が中央を離れれば、身体も後を追おうとはしなくなるだろう。少しの間の辛抱だ。
「あれっ。随分暗いね。窓はどこに消えちゃったの?」
担当看護師の姿をした人造人間が部屋に入ってくるなり、嘲笑と共に問いかけてくる。
ルースは、彼を一瞥するとベッドに戻った。
「身体が勝手に逃げ出さないように潰した。」
つまらなそうに答え、毛布を被った。
そんな彼に、人造人間は小さく嗤う。
「おやおや。身体は魂が恋しいんだねえ。
余計な物がくっついてきたから、迷惑だってさ。」
面白そうに笑うのに、眉をしかめる。
「とっとと向こうへ帰っちまえよ。そうしたら、お前だって面倒な思いしなくても済むだろう。」
目を細めそそのかしてくる人造人間に、ルースは背を向ける。
「───そんなことできないよ。
アルに約束したんだ。身体を守るって。」
「アル?」
“鋼のおチビさん”が弟をを指して使う言葉を使っていることに、エンヴィーは首を傾げる。
「あ、そうだ。僕の事はこれから『ルース』て呼んで。名前をもらったんだ。あの2人から。」
口元に笑みを作って語る“アルフォンスの身体”に、エンヴィーは皮肉気な笑顔をさらに深くする。
「ふうん。ずいぶん仲良くなったんだ?
人間ってのは、変なことするもんだね。ただの器に名前つけて何が楽しいんだか。」
嘲笑と共に語りかけてくる人造人間を、ルースは無視した。
その事に、エンヴィーは面白くなそうに眉を顰める。
「鋼のおチビさん達、ここには何しに来たの?ただのお見舞いってわけじゃないよね。」
探りを入れてくるのに、面倒くさそうにルースは答える。
「これから旅に出るんだってさ。」
「へえ。どこ行くって?」
「さあ。詳しくは……
しばらく会えなくなるからって、お別れ言いに来てくれた。」
「あ……そう。」
エンヴィーは肩をすくめて嘆息を漏らすと、もう一度部屋をぐるりと見まわして目を細める。
「この方がずっと『人質の部屋』らしくていいじゃん。」
そう言って、病室を出ていった。
楽しそうに言い残された言葉に、ルースは無言を貫くことで応えるのだった。
「ここは………」
ルースは、自分が立っている場所に唖然どしながら辺りを見回す。
つい最近まで自分がいた場所……真っ白な空間、自分の背後には真理の扉がそびえ立っている。
向かい合わせにあるもう一つの扉も相変わらずだ。 何故、ここへ戻ってきている。
身体に拒絶され、はじき出されたか?
ルースは自分の身体を見回した。
アルフォンスの身体のままだ。
と、いう事は完全に分離したわけではない。
それを確認すると、ルースは安堵の息を吐いた。が、そうなると今の状況は何であるのかと眉を顰める。
「随分とややこしい事になったもんだなあ。」
向かいの扉の前の「あいつ」が、大きな口で、歯を見せて笑いながら話しかけてきた。
「やあ。久しぶり。まさか、魂じゃない奴に引っ張られていくとは思わなかったよ。」
今までいた場所がこんなに殺風景な場所だったかと呆れながら、ルースは向かいにいる奴に答える。
「精神が混線しているからな。門が同じものと勘違いしたかもな。」
「そうなのかな。」
ルースは首を傾げる。
「本当の所は良く分からない。こんなケースは滅多にないからな。」
あいつは簡単に言うと、「おてあげ」とポーズをしてみせる。
その様子に、ルースは息を吐いた。
「まあ。戻ってきたわけだから良かったじゃないか。」
慰めるような言葉を言う相手に、ルースは首を振る。
「戻ってきたわけじゃないよ。
僕は…僕という意識はまだ代価の中にいる。身体は向こう側にあるのに僕はここに居る。
これは…そう、『夢』を見ているのと同じ状況だろうね。脳が覚醒しているのに、身体の方はまだ眠った状態……感覚が分かる…身体と繋がっているみたいだ……」
説明しながら、ルースは眉をしかめる。
「再構築された時に、組織の一部に定着もしくは融合してしまったかもしれない。」
ルースの言葉に、あいつは首を傾げる。
「代価に取り込まれたのか?」
「……そうかも……」
弱ったなと、嘆息を漏らす。
自分という存在が、彼の身体と一緒になりかけているとなると少々厄介だ。
魂が戻ってきた時、身体は僕をはじき出してくれるだろうか。もしもこのまま定着した場合。アルフォンスと僕はどのようになってしまうのだろうか。
ルースは、うーんと唸って頭を掻く。
「ともかく、何かうまく離れる方法を考えなくちゃ……」
このままでは自分が身体を乗っとることにもなりかねない。それではアルフォンスに申し訳ない。
そこまで考えて、ルースは目を瞬かせる。
申し訳ない……この思考は「感情」ではないのか?
その事に気が付き愕然とする。
と、ルースは何かに強く引っ張られた。
「身体が……っ。完全に覚醒するのか。」
急速に今までいた白い空間が遠ざかっていく。
ルースは、仄暗い空間をものすごい勢いで移動していた。
暗かった空間から明るい場所に引き上げられる瞬間、目の前に新たな光景が現れた。
何かの地図のような物が目の前にある。いや、ような、ではない。これは、アメストリス全土の地図だ。
向かい側から誰かの左手が鉛筆で丸印をつける。印をつけられた場所は“イシュバール”だ。
声が聞こえる。エドワードのものだ。
「国内であった、流血を伴う大きな事件を挙げてってくれないか。」
別の男の声が、淀みなく次々と大きな事件や事変を挙げていく。
その発生地に先ほど同様に丸印が付けられていく。印は国内各所にくまなく円を描くようについていった。
「西のペンドルトンの辺りは?」
「今、国境戦でドロドロだ。まずい戦いをして、兵がかなり死んでる。」
そこにも丸が付けられた。
「……そして、1914年。リオールの暴動。
死者多数だ。」
エドワードが息を呑んだのが分かる。
「オレは、リオールでエセ教主の正体を暴いた後、すぐ東方司令部に報告したよな?」
上ずった声で、エドワードが声の主に確認しているのが聞こえる。彼ではなく声の主の顔が見えた。
見下ろすような視点であることから、アルフォンスのものであると推測できる。
「すぐに東方軍が動いて、暴動を未然に防いだ。」
「じゃあ。何でそんなひどい事態に⁉」
アルフォンスが詰問する。
中央軍に指揮権を奪われたと、声の主…ファルマンがうめくように答えた。
「なんで……くそっ!!」
額に手をやり、エドワードが唸る。
別の女性の声が、作業を続けるように促した。
アルフォンスがその声の主を見た。まばゆく光る長い金髪と鋭く青い目が印象的な女性が座っている。
長剣を両足の間に立て、恐ろしく勇ましい……将校だろうか。
おそらく、彼女が、オリヴィエ・ミラ・アームストロング少将なのだろう。
エドワードが怒りで震える指先で、リオールを丸で囲った。
「これで……各地をつなぐぞ……」
点と点が線で結ばれていく。
アメストリス全土に散らばる点が繋がり、地図上に大きな模様を描き出す。
ルースは息を呑んだ
「第五研究所の地下にあった錬成陣とそっくりだ……!!」
───国土全土を使う錬成陣……あの陣形は……
賢者の石の錬成陣。
突如。視界は見慣れた病室の天井になった。
ルースは、ゆっくりと体を起こすと両の手で毛布を握りしめた。
「今のは……アルの経験?」
彼が体験したものを、自分も同時に見たというのか。
どういう事だと首を傾げる。
それにしてもあの錬成陣……どれだけ大きな賢者の石を作ろうというのか。
そもそも、それだけのエネルギーが一体何に必要なのだ?
「………日蝕を利用するのは、別の目的だったのか?」
日蝕による影を利用して巨大な錬成陣を作るものと思っていたのだが……
───まだ、何かある。
「エドワード……アルフォンス……」
2人は、彼らの計画の核心に近づいた。全体像を掴むことはできるだろうか。
ルースは疑念を打ち消すように頭を振る。
「僕をあそこから連れ出す事が出来たんだ……エドワード、君ならきっと……」
これは、確信。
「根拠はない……でも、きっと必ず……!」
彼らの可能性を信じる。そして、彼らは着実に、目的を果たすために進んでいる。
「僕は、僕の為すべき事をしなきゃ……」
この身体を健康な状態に戻し、取り込まれてしまっているであろう自分を分離する手立てを見つけなければ。
「やるべきことは沢山ある。退屈している暇なんてないね。」
ルースは、強い意志を込めて微笑むのだった。
「おやー。窓、復活したんだねえ。」
からかうような声で、人造人間が話しかけてくる。
「うん。暗い中での読書は、目に悪いから。」
こちらにを見ることもなく返事をする人質に、エンヴィーは面白くなさそうに息を吐く。
「随分と熱心だね。何調べてんの?」
ルースのベッドの上には、何冊もの本が所狭しと置かれている。
暇つぶしの名目で、国立中央図書館から貸し出してもらった蔵書だ。
こうしている間も、1冊の本を真剣な表情で読んでおり、目を離そうともしない。
「君達やお父様の計画とは全く関係ない事だよ。」
まったく取り合おうとしないルースに、肩をすくめる。
「まあいいや。今日は、君に報告があってきたんだ。」
「報告?」
怪訝な顔で自分を見る彼に、エンヴィーはほくそ笑む。
「鋼のおチビさん達の居所が分かったんだ。あいつら、今どこにいると思う?」
面白くてたまらないという様子で、クククと笑い声を漏らす人造人間にルースは眉を顰める。
「ブリッグズ砦の、牢屋の中だってさ。」
「牢屋?」
目を見開くルースに、エンヴィーは笑みを深くする。
「どういう魂胆であんな北の外れに行ったのか分からないけど、『ブリッグズの北壁』にドラクマの密偵じゃないかって疑われて捕まったらしいよ。」
マヌケだねぇ。と声をあげて笑う。
「ちょうど今、別件で紅蓮の錬金術師がブリッグズにいるから、鋼の錬金術にも一緒に仕事してもらうことにした。」
「仕事……?」
「傷の男とドクター・マルコーの捜索。それと……ブリッグズに『血の門』を刻む手伝い。」
人造人間は冷笑する。
「血の門?」
「そう。イシュバールのような大量殺人。人の怒りや憎しみにまみれたドロドロでぐちゃぐちゃなヤツ……!」
下衆な笑いを浮かべるエンヴィーに、ルースは軽く瞑目すると鼻で笑う。
「エドが、そんなものに手を貸すわけないだろう。」
「手を貸す?間違えちゃいけないなあ。
これは、大総統から国家錬金術師に出された『命令』だよ。おチビさんには断る権利がないの。軍の狗だから。」
勝ち誇った笑みを浮かべる人造人間に、ルースは眉を吊り上げる。
その様子にエンヴィーは至福を感じ、更に歪んだ笑いを見せた。
「あいつが逃げ出さないように手も打ってある。
急な出発で、寒冷地用機械鎧を用意できていないだろうから、大総統が彼専属の機械鎧技師に連絡入れたってさ。
出張整備してやってくれって。」
ルースの顔が怒りで歪んだ。そのことに人造人間は歓喜する。
笑い転げるエンヴィーの額に、何かが鋭く突き刺さった。
青白い光を放ちながら突き刺さっているのは、調べたことをかき取るための鉛筆だ。ただし、芯の炭素成分をダイヤモンド並みに硬化させてあるが。
「いってぇえ。何しやがるっ痩せっぽっち!」
苦痛と楽しみを邪魔された事に怒ったエンヴィーが怒鳴る。
「………今度はその目玉に突き立ててやろうか……!」
怜悧な光を放つ黄金の瞳を細め、ベッドに半身起こした状態で鉛筆の先端を自分に向けて構えるルースに、人造人間は目を剥く。
「出ていけ……っ!」
絞り出すような声を上げ、睨みつけるベッドの上の半病人から漂う計り知れない迫力に、エンヴィーは息を呑み、数歩後ずさった。
「ふん……っ。」
悔し紛れな声を漏らして、刺さっているものを引き抜く。
「ご機嫌斜めだねェ。今日はこの辺で退散するよ。
囚われのお姫サマ。」
揶揄する言葉をのこして去るその背中を、射殺さんばかりに睨みつけて、ルースは拳をベッドに打ち付けた。
「エドワード…アルフォンス……なんてことだ……!」
なぜ、彼らの望むように進まない?なぜ、苦境苦境へと追い込まれる?
この世界は物事が循環することで成り立っている。生と死、善と悪、明と暗、表裏一体のこれらが巡り会い絡み合いながら循環してひとつの奔流となる。
彼らは今、死、悪、暗の只中に置かれているという事なのか、ならばその中でもがき続ければいずれは、生、善、明を享受できるのか。
「等価交換……なのなら、今の苦しみは未来の喜びへのための代価と考えればいいのか。」
歯痒い……今、抗い続けている彼らの側に自分がいられない事、手を貸す事ができない事が……
握っていた拳を開いて自嘲する。
「何を考えているんだ僕は……僕は当事者じゃない観察者だ。こちら側に干渉してはならない存在だ。」
扉を開けるのは彼らの側、こちらから開けることはない。
たまたま、こちらへ引っ張られてきたからといって、当事者になった訳じゃない。分は弁えなければならない。
「だけど……苦しいよ。」
なぜ、こんな事を考えるのだろう。これは「感情」だ。
魂でもない自分に感情が生まれている。
「おかしいだろ……」
何時からだ?
ああ……あの日からだ。
名前をもらい、兄弟だと言ってもらえた日。
「名前が、人格を形成するファクターとなったのか?」
自分が「ルース」となった時から、変化が起きた……概念であったものがパーソナリティを得たらどうなる?
「駄目だ。ダメだよ。この身体はアルフォンスなんだ。僕のものじゃない。」
見つけなくてはならない。この身体から自分を切り離す方法を、ルースという人格が完成してしまう前に。
ルースは、憑りつかれたように本を読み漁るのだった。
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